
私は、中学生の頃から家庭の事情でよく嫌な思いをすることがありました。そんな時、口には出せずにいましたが、誰かに助けてもらいたいという気持ちを密かに抱えていました。その影響なのか、誰かをサポートする仕事に就きたいと思うようになりました。

結局、知人の紹介で看護師として病院で活躍できる場所があることを知り、その後の18歳から現在(57歳)までの39年間にわたり明石市圏内の病院を舞台に看護師の道を歩み続けることになりました。その当時は、まだまだ男性の看護師は少なく1割にも満たないほどで知名度も低く、呼び名も看護婦に対し男性は看護士と呼ばれていました。

最初の勤務先は救急指定病院でした。そこで学んだことは、目の前の命を守るためには、まず、そこにいる者が『冷静に判断して責任のある行動を取らなければならない』ということです。命の現場に立つ者にとって必要なことは『専門性の高い知識と技術に加え、たくさんの様々な経験』です。救急の医療現場では、多様な場面で的確な判断のもとで行動する必要があります。そのためには、『冷静でいられる』ことが重要です。過酷な現場で生じるイレギュラーな出来事には動じない冷静さを身に付けることで的確な判断ができるようになります。動揺することで判断ミスが生じたり事故のリスクが高くなったりします。私は、自前の冷静さを活かして男性看護師が活躍できる医療現場は『救急の現場』ではないかと考えました。緊迫した環境で精神力を鍛えることで、どんな状況でも対応できて『周りの人間から頼りにされる心強い存在』になりたいと思いました。数少ない男性看護師の存在とその必要性が世間に認められるためにも、救急救命に関する勉強と経験を一つひとつ確実に積み重ねてきました。そして、私が習得したものを糧にして、これまで39年間にわたり臨床の場で看護師の職務を続けてきました。

看護師の資格を取得後は、1992年に救急救命士の資格を取得し、同年には、国際協力機構(JICA)のJMTDR(Japan Disaster Relief Medical Team)国際緊急援助隊医療チーム研修の全課程を修了しました(その他、災害派遣精神医療チームDPAT研修課程修了)。最初の救急指定病院で看護科長を務めた後は、脳神経外科病院の手術室・救急外来の副師長を務め、最後は、精神科救急病棟の師長と看護専門学校の精神科看護非常勤講師を経験して現在に至りました。

この度、民間救急を創業するに至った動機は、令和2年から4年のコロナ禍で病院勤務中、新型コロナウイルス感染症患者を搬送する手段がほとんど無く、患者様の安全を守ることが困難な状況に陥った経験が民間救急を創業する動機になりました。コロナ禍で消防の救急車が不足する中、新型コロナウイルス感染症患者や『状態が不安定な患者様を安全に搬送できる民間救急』が必要であることを痛感しました。そこで、『安全に搬送できる質の高い民間救急』の創業を自ら実現したいと考えました。患者様の状態が不安定ではあるが、急変ではない理由で消防の救急車を呼べないケースを私が担うことで、『滞りのない円滑な地域連携医療』に関与すると共に、以前から協力したいと考えていた『救急車の適正利用』に参画することができるチャンスだと思いました。

私は35歳で転職する際、本当は消防局の救急隊員になり救急車に乗務して現場での救急活動をしたかったのですが、年齢制限のため断念しました。それとは少し仕事の内容が違いますが、民間の救急搬送車に乗務して長年の臨床経験で身に付けたすべを頼りに、『社会貢献度の高い民間救急の仕事』で残りの人生を賭け、実りのある終結を迎えたいと考えています。
皮肉にも学生時代に経験した嫌な思い出が、少々のイレギュラーな出来事には動じない冷静さを身に付けさせてくれました。今思えば、学生時代の嫌な経験が、結局は良い方向へと導いてくれたのだと思っています。今となってはとても感謝しています。

ご紹介しましたように、私が習得した『私にできること』を全うして『患者様を安全に搬送』いたします。そして、『患者様の苦悩やその介護に疲れたご家族のこころのケア』を公認心理師である私の妻と一緒にサポートいたします。もし、お悩み等があるようでしたら助けを求めて下さい。よろしければお話を伺います。少しでも気が楽になり『良い方向へこころが向くように』私達がサポートいたします。

明石民間救急が皆様方の『心強い存在』になり、『安心して私達にお任せいただける』よう夫婦一丸となり日々努力してまいります。
今後とも格別のご支援、ご愛顧を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
代表 石井義秀

